2010年9月24日金曜日
イン・マイ・ウェイ/IN MY WAY
イン・マイ・ウェイ/IN MY WAY
人気モデルの長谷川潤さんの好きな俳優はひとりしかいないそうで、それがエルヴィス・プレスリーだそうです。彼女が生まれたときには、すでにエルヴィスは他界しています。その長谷川潤さんの好きなエルヴィスとは60年代初期のエルヴィスだそうで、カッコいいことこの上ないそうです。その頃のエルヴィス・プレスリ-のアルバムのひとつが「メンフィス・テネシー ELVIS FOR EVERYONE」です。
レコード店の店先で、エルヴィスがレコードを売っている想定の遊び心が楽しいジャケット。
このアルバムは、所属していたRCAに莫大な利益をもたらしたのはもちろん、音楽ビジネスを巨大な産業に作り替えたといっても過言でない、キング・オブ・ロックンロール、エルヴィス・プレスリ-のRCA在籍10周年記念アルバムとしてのリリースされたものです。
同じコンセプトでは、豪華写真満載で、上・下巻に分かれた日本編集盤「エルヴィス・ゴールデン・ストーリー」も、在籍10周年記念盤でした。こちらはベストアルバムで、力の入ったキャンペーンが、展開されたのは言うまでもないでしょう。
現在も持っている方は宝物ですよね。
ところが「メンフィス・テネシー ELVIS FOR EVERYONE」・・・
曲の方は、アルバム収録もれのものを集めたもので、ビッグヒットは皆無です。しかし、さすがにエルヴィス・プレスリーです。どの曲もいい味だしていて、飽きることのないアルバムになっています。
エルヴィ・ファンのみなさんご存知のように、こんなアルバムにこそ、その本領発揮されています。ギネスいっぱいのエルヴィスなのに、ヒット曲で語れないのがエルヴィスの真骨頂です。
同アルバムからの、個人的なオススメはハンク・ウィリアムス最後のレコーディング曲にして大ヒット曲<偽りの心>のカヴァーを筆頭に、エルヴィスのウェスタン映画「燃える平原児」のEP盤に収録されていた<夏に開いた恋なのに>、チャック・ベリーの<メンフィス・テネシー>、57年録音の<恋は激しく>などなど。
それにしても、それにしても、小さい★だけれど、54年サンレコードにて録音の<トゥモロー・ナイト>と共にひときわ強い光を放っているのが、シリアスな物語が話題となったエルヴィス・プレスリ-7本目の映画となった「嵐の季節」挿入曲<イン・マイ・ウェイ>ではないでしょうか?
l may not be here tomorrow
But l'm close beside you today
So lie me a little
Say you love me a lot
And l'll be true to you in my way
Love never goes on forever
At least that's what wise men all say
So smile when you kiss me
Tomorrow you may cry
But l'll be true to you in my way
Yes, l'll be true to you in my way
明日はここにいなくても
今日、君のそばにいる
だから少し嘘をついて
とても愛していると言っておくれ
そうすれば僕なりに君を愛するよ
愛は永遠には続かない
これは賢者たちの言葉
だから口づけるときには微笑んで
明日、涙を流しても
僕なりに君を愛するよ
そう、僕なりに君を愛するよ
(川越由佳 氏:翻訳)
<イン・マイ・ウェイ>は、<いかすぜ!この恋><ポケットが虹でいっぱい><ロカ・フラ・ベイビー><夏に開いた恋なのに>のフレッド・ワイズ&ベン・ワイズマンの共作でした。
<イン・マイ・ウェイ>のように、ごまかしのきかないアカベラに近いようなものを歌うと、巧さ、声のよさは勿論のことですが、内面的なものが、ビンビン、伝わってきます。
僕たちは、直観と思考の狭間で、知識や経験を使って暮らしていますが、心で感じて行動するより、頭で考えて行動する傾向が強くなる一方なのでしょうね。
それを退化とするか進化とするかは、それぞれの判断。
ただむごい事件の多発を思えば答えは憂慮のなかで、こだましているような気がします。
<イン・マイ・ウェイ>は、まさにエルヴィスの直観から歌われたものだと感じています。
同じようなタイプの曲としては有名な<ラブ・ミー・テンダー>、晩年には<ダニー・ボーイ>もありますね。
録音状態による影響もあるので、正確なことはわかりませんが、60年代初頭、除隊後の一番乗っている時期のエルヴィスを感じさせる<イン・マイ・ウェイ>は、両者と比較しても、声の艶っぽさで、優っているように感じます。
公的な書類に、記されたエルヴィスの職業は、アーティスト、シンガー、パフォーマーでもなく、ミュージシャンと書かれていたはず。
だったとしても、歌一本で勝負している姿からは、シンガーだと強く感じます。
シンガーが減少しているのは、世界的な傾向ではないでしょうか。
人が鳥のさえずりを気持ちいいと感じるのは、嘘もなく無垢だからです。
無垢かどうかはともかく、シンガーなら歌声の素晴らしさに尽きるのが王道。
それにしても、曲調が明暗に関わらず、またロック、バラードに関わらず、孤独感がにじみ出ることが少なくないエルヴィスですが、<イン・マイ・ウェイ>のように、ギターだけ、あるいはピアノだけの伴奏といったシンプルな曲には、それを感じないのは不思議です。
普通、このような曲は内省的になり、一層そういった感じになりそうだと思うのですが、内省的にならず、むしろ、親友のようなあたたかな声がします。
だからといって誰かに語りかけているふうでもなく、とっても不思議な感じです。
おそらくエルヴィスが、深く音楽に侵入することで、音楽そのものなっていて、自然や宇宙と一体になってしまっているからだと思います。
孤独感がしないのも当然です。もはやここでは無私の状態なんですよね、無私ですから当然「君」もいません。
ですから逆に親友の声がするのかも知れません。
しかし、くどいようですが親友という概念もありません。
記者会見で「歌なしでは自分はない」と、プロなら誰でもいいそうなセリフを、エルヴィスはのべています。エルヴィスはそれを話しているのではなく、伝えてきていることに注目したいです。
人は自分と同じセンスの人に出会う機会ってありそうで、実はそんなに多くないと思います。
エルヴィスが、どれほど自分に近いセンスの人に出会ったかは、知る由もないけれど、<イン・マイ・ウェイ>がこんな小さな扱いしか受けていないことが、その事実を伝えているように思います。
<ホワッツ・ナウ・ホワット・ネクスト・ホエア・トウ>なども例外ではない。
でも<イン・マイ・ウェイ>は65年にカヴァーされています。やっぱりいいものはいい。
ただ歌うことがどんなに難しく、素敵なことか。
ただ生きることがどんなに難しく、素敵なことか。
それを教えてくれる<イン・マイ・ウェイ>のエルヴィス・プレスリー。
ボクは物欲から離れて、「オレの月」を観ながら秋の夜長。
物欲から離れるから、みんなの月のはずが「オレの月」になるのだと、
教えてくれるような<イン・マイ・ウェイ>です。
2010年6月9日水曜日
恋にいのちを/FAME AND FORTUNE
恋にいのちを/FAME AND FORTUNE
知っているようで、人は知らない。自分を幸福にする力はどこから来るのか。人は外側の力を追い求める。他人が評価しやすい、分かりやすい目に映る力。地位、名誉、専門知識、財産がその筆頭だ。その対極に内側の力がある。目に映りにくい力。だが、こちらは世界共通、死ぬまで使える力だ。
富と名声、なんと虚しいものだろう
でも君を抱きしめると
まるで天国にいるようさ
富と名声など何になる
ほんの一時だけのもの
でも君の口づけの感触は
僕を王様のような気分にする
君の愛は宝物
金や銀より尊いよ
もしも君を失えば
後には何も残らない
でも、君に愛されていれば
それが僕の富と名声
でも、君に愛されていれば
それが僕の富と名声
アメリカらしいタイトル<FAME AND FORTUNE>に<恋にいのちを>と日本らしいタイトルがついたロカ・バラード。新緑の季節、あるいは真夏の木陰。吹く風は切なくなるほどじぶん色の人に似てミステリアス。内側の心を照らす視線は癒し。
オールタイムの名作、ブラッキーなプラターズの<オンリー・ユー>がある。比較すればエルヴィス・プレスリーのバラードは白人の匂いが漂うものの、アメリカンな軽さからはほど遠い。エルヴィス・プレスリーならでは仕上がりだ。誰も真似が出来ない。
この楽曲に対する評価は真っ二つに分かれている。「挑戦的でなく持てる才能を発揮しょうとしていない」という意見と「素晴らしいバラード」という意見。どちらも本当であっても。声霊は音霊を抱きしめている。その抱擁の熱さは永遠。
2010年4月16日金曜日
本命はおまえだ STUCK ON YOU
本命はおまえだ STUCK ON YOU
エルヴィス・プレスリーのアルバム『ワールドフェアの出来事(ヤング・ヤング・パレー ド)』が27,000円で中古レコード店に並んでいた。アーミー姿のジャケットのシングル<本命はおまえだ>が18,000円。いいねえ、いいねえ、やっぱりきちんと評価されている。嬉しくなる週末だ。
1960年3月3日に正式に除隊、列車「テネシアン号」でメンフィスに到着したのが3月7日。3月20日にRCAナッシュビルBスタジオに駆け込むように録音 に参加、徹夜で取り組んだなかのひとつが<本命はお前だ/STUCK ON YOU>。裏面には<恋にいのちを>が収録された。なんと除隊1週間後の28日に全米でリリースされた。
<本命はお前だ>は除隊第一弾、不安と自信をもって世に送りだされた作品であり、もちろん大ヒット。
いかに急いでいたかが伝わるエピソードだが、それもそのはず前年11月時点で全米のあらゆるチャートからエルヴィス・プレスリーの字は消えていたという。
しかし本曲のニュースが流れると、ファンが待ちかねていたように、予約が相次ぎ予約段階でミリオンセラーを記録。
発売2日前の26日には伝説の『フランク・シナトラ・ショー』にも出演し、復帰を加速した。<本命はお前だ>は軽快なロック・チューンとして、エルヴィス のキャリアの中でもコミカルな味が忘れがたい曲だ。尚、本曲は『ELVIS IS BACK!』に収録されていないのが、あるべき姿だ。
それほどのエルヴィスである。普通の人々にとって、エルヴィス最大の謎は、エルヴィスほどの富と名声と獲得した人がなぜその芸術の評価を下げるような作品 に手を出したのか?もっと自由に仕事を選択できたはずだという疑問。たとえマネジャーがそれを望んだとしても、拒絶できたはずだ。という思い。また、身体 を壊す程にステージに立たなくてもよかったのでは?という思い。
あるいは、ボブ・ディランらに代表される「生への活気のなさ」という類いのもの-----もてる才能を十分に発揮しなかったという意見。結論から言うとエルヴィスのおかれた状況からすれば、エルヴィスに選択肢はなかったようにしか思えない。それ以上のことを求めるのは酷なのだ。エルヴィスはその人生の時間に於いて可能な限り戦ったのだ。 もし許され、もう少し時間が与えられたなら、そこで違うやり方を具現する可能性はあっただろう。
流浪する「エルヴィス」が何者なのかについて、観客にはバイロンよりひとつだけ多くヒントが与えられている。冒頭で、ヒッチハイクの「エルヴィス」 を乗せたトラックの運転手が、彼を降ろす際にこんなことを言うのだ。
「救われたよ。あんたと過ごした数日間でまた勇気が出た」それはほとんど「神」への感謝の言葉である。最初は気がつかないが、物語が展開していくにつれて、その運転手の言葉の重みが徐々に増してくる。
この「エル ヴィス」は実は、「神」ではないのか? だが、もし「エルヴィス」が「神」だとすると、ひとつだけ理解できないシーンが出てくる。メンフィスの「グレイスランド」に着き、そこに建つプレスリー 邸にバイロンと共に忍び込んだ「エルヴィス」が、邸内に誰もいないのを知って泣き崩れる。「こんなはずじゃないのに……誰ひとりいない..……」それは「エルヴィス」が「生きているプレスリー」であることを物語っているのか、単に「工ルヴィス」を演じている流れ者にすぎないことを暗示しているのか、あるいは「神」もまた泣くということを意味しているのか。そこをどう理解するかによって、この映画の姿は微妙に異なって見えてくるかもしれない。
だが、たとえ流浪する「エルヴィス」をどう捉えるにしても、そのシーンによって、これが単に癒される者の幸せを描いた作品ではないということは伝わってく る。この『グレイスランド』という映画は、癒す側の不幸、あえていえば、癒すことでしか癒されない者の不幸を描いた作品でもあったのだ。
(『世界は「使われなった人生」であふれている』沢木耕太郎 著:暮らしの手帖社刊)
以上は、沢木耕太郎さんが書かれた『世界は「使われなった人生」であふれて いる』の一章「プレスリーがやって来た」からの抜粋である。
「癒すことでしか癒せない」-----この言葉は人間エルヴィスを理解する上で重要なキーワードだ。癒すことに自分の生命、存在価値を自ら感じ取る。エルヴィスの人生はそれに使われたと感じている。
以前ゴスペルとの関係でも取り上げたテーマであるが、ボクはそのようにしか生きられなかったエルヴィスの哀しみを愛して来たし、少なくともエルヴィスの死 後は、毒を持って毒を制するがごとくエルヴィスの哀しみによって自らを癒して来たのだ。
エルヴィス死後、その音楽から離れて神格化されていく。その傾向への批判も一方ではある。それがいたずらにファンの惜別の思いのみによってのこととは思え ない。エルヴィスが何をして何者だったのかのかを求めれば求めるほど、つまり人間エルヴィスを思う程、俗に言う「神格化」の傾向は自分の中でも強まる。
映画『グレイスランド』はそのことを語った映画であったと思う。しかし『グレイスランド』という映画はエルヴィス・ファンをターゲットにした映画ではない。エルヴィスを借りたロード・ムービーだ。つまり人は何かに依存し人生を生きているというのがテーマであり、この作品を通してエルヴィスの真実を伝えようとしたのは、人間の普遍を伝えようとしたにすぎない。
ここで使用された<ロング・ブラック・リムジン>は、自分の存在価値を示すために都会に出て行った者の末路を歌ったものだし、<明日への願い>も叶わぬ思いを歌ったものだ。
登場するマリリン・モンローは、癒されることで癒すことができる、癒される者の終わりのない不幸を生きた女優であった。
結局、エルヴィスもモンローも、自分の存在価値を追い求め、他人からすれば究極の幸福に辿り着いた者である。そう見なされながらも、見なされるがゆえに、 より存在価値証明の迷路に迷い込み、疲れ果ててしまったのかも知れない。
エルヴィスは壊れていた少年だった。モンローはそれ以上に壊れていた少女だった。
精神が不安定で依存症の傾向にあった母親の嘆きを聞きながら、それを自分の責任と思い込んだ少年。幼少の頃に、母親は精神病院に入院、親戚を転々とし、孤児院に暮らした少女。
「自分は無用の子」と感じてしまった、いわゆる「トラウマ」との戦い。エルヴィスもモンローも、自分の存在価値を自らが感じる唯一の方法は、他者に受け入れられることだ。嘆いている母親とご機嫌な母親の狭間に暮らす緊張の日々、自分で生計を立てられない無力な幼い子にとって母親がご機嫌なことは自分の居場所を獲得できたこ とを意味する。
反対に不安定な母親を見るのは、居場所がなくなる「恐怖」なのだ。母親のいい子になるのは、自分の居場所を獲得する戦いである。それが毎日 続くーーー「波風立てない」「従順」が生活習慣として身についてしまうのは不思議でない。もっと正しくいうなら身につけることが「生活の知恵」「生存する ための技術」を修得することなのだ。
エルヴィスの痛みの原因として、プリシラ・ショックが多く語られる。その本質は「癒す対象をなくしたことで、自分が癒されなくなった」ことにある。つまり 痛みの本質は「自分の居場所がなくなった」ことにある。その意味に於いて、プリシラはグラディスの代理である。自身もまたグラディスの代理である。人気者となり、わが子が手許から遠ざかることに寂しさと無力感を感じ身体を病んでいった母親をなぞったのだ。
つまりエルヴィスはもともと「癒すことでしか癒され ない」性質だったのだ。それは母親から受け継いだ生への基本姿勢である。そこから生まれた情念の凄さ、言葉にできない生への熱い願いと挫折感の激突が、人 の胸を抉りとるように、ロックンロールしたのだ。バラードもエルヴィスにはロックンロールだった。
幼少のモンローはエルヴィス以上に受け入れてくれる者がなく、受け入れてくれることを求めた。美しくかわいく才能も豊かに成人したモンローは、才人から受け 入れられたが、幼少時に心に深く刻まれた「受け入れてくれる者などいない」という思いは、受け入れてくれる者を疑い、これでもかとばかりに試すことを繰り 返した。誰をも信じないこと、愛さないことが、自分を守るための「生活の知恵」「生存するための技術」であり、結局モンロー愛した者たちは深く傷つき、断 腸の思いで別れることを余儀無くされた。
なるほど多くの人は、エルヴィスほどの富と名声と獲得した人がなぜその芸術の評価を下げるような作品に手を出したのか?もっと自由に仕事を選択できたはず だという疑問を持つ。たとえマネジャーがそれを望んだとしても、拒絶できたはずだ。という思い。また、身体を壊す程にステージに立たなくてもよかったので は?という思い。不思議に見えることこそ生活習慣として身につけてしまった「生活態度」であり、頑に信じて疑わない「生存するための技術」なのだ。
マネジャー・パーカー大佐とエルヴィスとの間で意見の食い違いがあったと仮定する。エルヴィスは幼少の時から、自分の面倒をみてくれる者の態度、表情に敏感である。ひとつのため息がどれほどエルヴィスの心を痛めつけるか、それは当人でないと計り知れないのだ。母グラディスがご機嫌であれば嬉しかったのと同じようにパーカーがご機嫌なら、その瞬間「万事はうまく行っている」と思ってしまうのだ。
仮にグラディスの機嫌が悪くても、それは隣人のせいかも知れない。役所のせいかも知れない。パーカーが悩んでいても、個人的な問題かも知れない。
しかし突然のように変化するグラディスの表情を見て来た少年には、「次の瞬間が恐い」のだ。思うにこのような状況は、変化を極端に嫌がる性格を形成する。 結局変化を嫌い「万事はうまく行っている」状態を好むようになる。実際の状態など関係ないのだ。
言われるようにエルヴィスの映画が、「クソ映画」だったにしても、『エルヴィス・カントリー』のジャケットのエルヴィス坊やの痛みがそこにあることを知ったなら、それを愛おしみ、ポップコーンの塩味はさらに塩がきいて、楽しめるはずだ。「一人の人間が懸命に生きていることが伝わるだろう」、そこにあるのはア カデミー作品賞をゲットする作品が訴えている多くの主人公の姿そのものなのだ。
「エルヴィス映画」-----それは素晴らしい戦いの記録だ。ボクは自分だけのアカデミー賞をこれらの作品にあげる。エルヴィスに「がんばったね。」と言ってあげたい。それは自分に向けたエールでもある。
身体を壊す程にステージに立たなくてもよかったのでは?というシンプルな謎。
もしステージ立たなかったら、もっと苦しんだだろうと思う。自分の存在価値を感じる居場所がなかっただろう。ここでいう存在価値とは客観的なものではない。あくまで本人の感じ方なのだ。
自分の意志とか関係のないものに突き動かされる日々。本人の意志ではない本人の思いに支配されながら、頂点を疾走したエルヴィスとモンローが、永遠のポッ プ・アイコンになったのは決して偶然でない。それは彼等が明確な言葉で語っていなくとも、大衆は彼等が発散するオーラに秘められた「謎」を感じ取っている からだ。その謎こそ国境を超えて「多くの人が持ってしまった謂れのない罪の意識」。それは同胞の思いなのだ。世界は傷ついてしまった人で溢れているのだ。
神格化されていくのは、彼等に自分を投影する大衆のカタルシスなのだ。 ショー・ビジネス、プロ・スポーツに生きるものが担っている役割である。大衆は彼等に自分の出来ない夢を託す。どのように賛辞され、どのように批判されようが、イチローの偉業は野茂を追った点にあると思う。野茂の偉業は日本のプロ野球の殻を破って海を渡ったことに ある。モンローは将来を夢見て裸身をさらけだしたことにある。
そしてエルヴィス・プレスリーの偉業は-----サンレコードのドアのノブを回したことにある。その瞬間、少なくとも彼等は、「自分を生きた」-----そしてその時、運命の女神はよそ見をしてなくて、にっこり頬笑んでくれたのだ。どのように賛辞され、どのように批判しょうが、ほとんどはエルヴィスのようにドアのノブは回せないのだ。間違いなくこの瞬間、エルヴィスは自分を愛し信じた。
素晴らしい瞬間と、それを点にしてそこから続く一本の線。サンのレコー ドには、ピカピカの精霊が躍動しながら宿っている。少なくともエド・サリバンショーで<谷間の静けさ>を歌い終わる瞬間まで、エルヴィスはその人生でもっとも自分を愛した時だった。ボクにはそれがたまらなく嬉しい。なぜならこんなようにこれほどまでに、自分を愛せる瞬間を持てる人は世界に多くもないし、それゆえ勇気を与えるものだからだ。
正規盤しか聴かないのを本分にしているのだが、『TASCON'76』を聴いて、もうここには力尽きて誰をも、癒すことができなくなったエルヴィスが立っていることを存分に知らされた。しかしここでも-----サンのドアを開けたエルヴィスが<ダニー・ボーイ>を口ずさんでいるのも知らされたのだ。
「『エルヴィス・イン・コンサート』はエルヴィスの遺書。もうエルヴィスはここにはいないのだよ。と言っている。辛くても目をそむけてはいけない」 -----鈴木喜久雄氏の言葉だ。私は思わず胸がつまったが、そうなのだ、目を背けてはいけない。しっかり見据えれば見えてくる。
ジャンプスーツのエルヴィス、リーゼントのエルヴィス------。「人は他人と違っていても、違っていなくても、いるだけで存在価値がある。」それを伝えていくことが、エルヴィスを聴いた者の役割なのだ。エルヴィスがあんなに、命をかけて、求めたもの---。それを伝えなくては------。
「人は他人と違っていても、違っていなくても、いるだけで存在価値がある。---だから、自分の開けたいドアを開けていいのだ、本命はおまえだ。しっかり 自分を信じて離さずに行け。」と。18,000円のシングルをご堪能あれ。これはストーカーの歌ではない。自分に賭ける歌だ。自分を愛する歌だ。
♪ 木になるリンゴを振り落とせる君も
僕のことだけは振りはらえない
Uh-huh-huh、絶対無理だね
糊みたいにくっついてやる
だって僕は、君にゾッコン
その長い黒髪を撫でながら
クマよりもきつく抱きしめてあげる
Uh-huh-huh、本当だよ
糊みたいにくっついてやる
だって僕は、君にゾッコン
*キッチンでも廊下でも構わない
どこに隠れたって同じこと
君に口づけを始めたら
天地がひっくり返ったって放さない
どんな手だって使ってみせる
二人が一緒にいられるなら
Uh-huh-huh、そうさ
糊みたいにくっついてやる
だって僕は、君にゾッコン
* くり返し
どんな手だって使ってみせる
二人が一緒にいられるなら
Uh-huh-huh、嘘じゃない
糊みたいにくっついてやる
だって僕は君にゾッコン
糊みたいにくっついてやる
だって僕は、君にゾッコン
糊みたいにくっついてやる
だって僕は、君にゾッコン
THE KING OF ROCK'N ROLL----その言葉は重い。
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